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大化改新の方程式(173) 新羅に託して上表文を送った理由

前回は、乙巳の変後なぜ早々に遣唐使を送らなかったかについて考えたが、今回は、なぜ648年倭国が新羅の遣唐使に託して唐帝への上表文を届けさせたかについて考えてみたい。

新羅の遣唐使に託して唐帝への上表文を届けさせることが、任那の調の免除(646年)や金春秋の倭国招聘=倭国へ援助を申し出る機会の提供(647年)と同じく、新羅を利するものであり、それらの見返りとして提供される最新の唐の情報が、孝徳新政権の狙いであったことをこれまでみてきた。

しかしながら、これほど手の込んだことを、単に新羅に恩を売るだけのために発案したわけではないだろう。
倭国にとって必要があったからこそ実行したのであり、成り行き上それを新羅とのバーターに利用した、というのが実情なのでないか。

では、大化政権にとって早々に唐へアプローチする必要があった事情とはなんであったのか。

その背景の1つは、舒明朝における遣唐使(630年)への答礼として632年に遣わされた高表仁との間で諍いが生じたことだ。
『旧唐書』によれば、この外交上の軋轢は答礼使たる高表仁の稚拙な手腕に起因するものとして記録されているが、当時の倭国朝廷内には、この一件によって倭国が唐のみならず朝鮮諸国に「礼を知らない蕃夷」というイメージを植え付けてしまったと屈辱感を抱く人々が少なからずいたはずだ。640年に帰朝した高向玄理(黒麻呂)や南淵請安からも高表仁の任務失敗の後日談を聞かされていたであろう。
乙巳の変後、大唐と積極的に交わっていきたいと考えていた大化政権首脳においては、近い将来企画している大規模な留学生・留学僧派遣において門前払いされないための地ならしとして、発足早々に対処すべき事案として認識されていたにちがいない。

また、もう1つの理由として、政変によって王が交代したことを唐に報告する必要性を感じていたからと私は考えている。
王室をないがしろにする逆臣を討ったというストーリーはあくまで後世の脚色にすぎない。同時代人の目には、重臣が討たれ王が退位して新しい王が誕生した、と映っていたであろう。
前王が生存しているとはいえ、政権交代の図式は、642年の高句麗における淵蓋蘇文のクーデターと同じものである。これが644年の唐太宗による高句麗遠征を招いたことは当然ながら大化政権首脳たちの念頭にあった。
倭国は唐に冊封されているわけではないが、唐との通好に臨むにあたり、この政権交代が高句麗のような王位簒奪ではないことを早々に表明しておく必要があると考えたとしても不思議ではない。
その釈明においては、632年に遣わされた高表仁との諍いは、このたび討たれた重臣のせいであったという言い訳も添えられていたことは十分に考えられよう。

ただ、前回も触れたように、この段階で直接使節を派遣するのは、「対等外交のためのエビデンス」がない状態で答礼使を迎え入れることになり、リスクがありすぎた。
そこでとられたのが、第三国(新羅)に託して唐帝への上表文を届けるという方式であったわけだ。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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