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古代史メモ(1) 人に恵まれた不比等

当初は『偽りの大化改新』(中村修也)をもとに自分なりの大化改新像を10回程度でまとめておくつもりであったが、すでに175回を数え、年月にして6年半にいたっている。
その間、現在の「大化改新の方程式」の展開上すぐに触れられないが、いずれ取り上げるべきとした論点や過去の記事の修正点などをメモ書きとして残してきたが、これだけの年月が経過すると、それだけで膨大な量になっている。
そのなかには、現在のペースでは、50回先にならないと本編では出番が回ってこないようなテーマが多々あり、それまでタンス預金化しておくのがもったいないような気がしてきた。
というわけで、将来本編で俎上にあげる際には否定することになろうとも、メモはメモとしてこのブログにて公開しておこうと思う。
そうすることで、少しでもブログの更新頻度をあげられるとの期待も込めて…。



さて、そんなメモの第一弾。

前回の記事のなかで、私は「安達(のちの中臣大嶋?)」とさらりと書いているが、もちろんこれが通説ではない。
『日本古代史人物事典』によれば、中臣大嶋は「鎌足の従兄弟の許米(こめ)の子。金(きん)の甥。安達(あんだち)の兄」と書かれている。ただ、確たる系譜が残されているわけではないようだ。(←もし間違っていたらご指摘ください)
もし私がいうように、653年に入唐した安達が、鎌足や中臣金の没後、中臣氏の氏上的な存在となり、持統朝に藤原不比等が台頭するまで活躍した中臣大嶋その人であったとするなら、不比等の兄・定恵とは留学僧仲間であったことになる。

さらにもう1人、定恵と留学僧仲間であって、後年不比等に大きく関わってくる人物に粟田真人がいる。言うまでもなく、大宝律令の編纂に参画し、大宝の遣唐使では執節使に任じられた人物だ。
先の記事では「道観(のちの粟田真人?)」としているが、こちらはほぼ定説となっている。

安達や道観の帰朝の時期は不明だが、定恵は665年に帰国後、その才能を妬んだ百済人に殺されたとされる。その死の真相についても古代史の大きな謎ではあるが、ここではおいておき、私が言いたいのは、この兄の不慮の死ゆえか、彼の留学僧仲間であった中臣大嶋や粟田真人から、若き日の不比等が目をかけられたということは言えないだろうか。
おそらく彼らのバックアップなしでは、持統朝、さらには文武朝における藤原不比等の活躍はなかったであろう。

蘇我氏としては数少ない壬申の乱での勝ち組である蘇我安麻呂の妹である娼子(しょうし)を妻とし、軽皇子(後の文武天皇)の乳母である県犬養三千代(橘三千代)と再婚したことから、藤原不比等の立身出世は女性運の強さの賜物とされがちであるが、実は、男女問わず、不比等は人に恵まれたというべきであろう。

小説になかに登場する不比等は、とかく冷徹な策士として描かれることが多いが、実はもっと人好きのする愛すべきキャラクターだったのかもしれない。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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