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大化改新の方程式(176) なぜ白雉4年の遣唐使は中国の記録にないのか

「大化改新の方程式」の前回の記事では、白雉5年の遣唐使はもともと予定されていたものであったとして、それが1年遅れた理由を問わねばならないとした。(すでに訂正済だが、前回の記事では白雉4年と5年の遣唐使を、それぞれ3年と4年として誤って記述しているところがあった)

まず言えることは、この2つの遣唐使は、同じ時期に出発を予定していたものであったであろうことだ。
おそらく白雉4年の吉士長丹ら遣唐使一行は、新羅道経由の高向玄理ら一行も時をおかずして出発するものとして旅立ったにちがいない。
すなわち、それぞれが異なった任務をもちつつも、大唐との通交再開という同じ目的で編成された遣唐使だったのだ。
吉士長丹らは数多の留学僧・留学生の入唐、高向玄理らは朝貢というそれぞれの任務を担っていたわけだ。

そのように考えると、中国側の記録が白雉5年の遣唐使だけということの説明がつくのではないだろうか。
倭国・日本からの遣使の頻度が低い分、1回あたりに乗船する留学僧・留学生は多数であったはずだが、長い遣唐使の歴史のなかで中国側にはその数を記録したものはない。
中国にとって多くの若者たちが学びに来ることはあたりまえのことであり、それ自体を記録に留める必要はなかったであろう。重要なのは、どの地域のどの国がどのような貢物をもって朝貢し、どういう爵位を望むのか、ということであった。

先に入唐した吉士長丹はやがて朝貢再開を奏上する高向玄理ら一行が到着することを唐朝廷に告げていたにちがいない。だからこそ、留学僧・留学生の運び屋に過ぎなかった吉士長丹らの記録は中国側には残らなかったのだ。
そして、遅れて出航した高向玄理ら一行が新羅に留め置かれていることを確認した後、吉士長丹らは「多くの文書と宝物」をもって帰路についたのではなかったか。

では、なぜ高向玄理の遣唐使は、出航が遅れてしまったのだろうか。
この問いにはまだ答えられていない。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

答えを

>まず言えることは、この2つの遣唐使は、同じ時期に出発を予定していたものであったであろうことだ。

なぜこの結論に至ったのか、それを知りたいです。
遣唐使を2便ほぼ同時に送る、それはかなりの異常事態だと思うのですが。
前回(前々回?)にも明確は答えは示されていません。
巨額の費用がかかる遣唐使を、「なぜ」「2便」「ほぼ同時に」送ることになったのか、「猫にもわかるように」教えていただけたら嬉しいです。

Re: 答えを

コメントありがとうございます。
さすがに、すんなりスルーしてくれませんでしたね。
おっしゃるとおり、それ以前に何も根拠は示していないです。
実はそのあとに続く「白雉4年の遣唐使の記録が唐側にない」ということを説明できるということが理由のその1。そして、「一方が留学生たちの運搬、もう一方が朝貢という分担があったとするなら、同じ年に任命され、出航も予定されていたにちがいない」というのが2つ目の理由です。
ただ、どちらも十分な「理由」たりえないものなので、ちょっと煙に巻いてみたのでした。失礼しました。
なお、「巨額の費用がかかる遣唐使を2便も送るなんてありえない」というご意見かと思いますが、私は白雉5年の遣唐使は白雉4年の使節ほど大きな規模ではなかったと考えています。以前も触れましたが、次回以降あらためて展開したいと思います。乞うご期待にゃ。

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