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大化改新の方程式(177) 650年百済船建造が示唆するもの

前回の記事について、「白雉4年(653年)の吉士長丹らの遣唐使と白雉5年(654年)の高向玄理らのそれはもともと同じ時期に出発を予定していたものであった」という結論に至る理由がはっきりしないというご指摘をいただいた。
実は自分でも納得いく根拠が示せれなかったので煙に巻いた展開にしておいたがバレバレでした…。
「思考実験」を謳い文句にする以上、不確かなところはそれと認めつつ丁寧にすすめるべきでした、反省。

ということで、証拠不十分であることを承知のうえで、現時点でこの疑問に答えうる推論をまとめると以下のようになる。
唐側の記録には白雉5年の遣唐使はあって4年はない。
→ 中国は留学生・留学僧の入国について正史に記録を残さない。
→ 白雉4年の遣唐使は留学生たちの運搬のみを担っていたので記録が残らなかったのではないか。
→ 朝貢使としての役割は白雉5年組だったろう。
→ 両者が全体として1つの遣使プロジェクトであった。
→ 同じタイミングに任命され、また出航も同じ時期を予定していたにちがいない。

では、なぜ高向玄理ら白雉5年の遣唐使は出航が遅れてしまったのだろうか。
そして、なぜ彼らは「新羅道」を使って入唐したのだろうか。

以前の記事(押使・黒麻呂が通った「新羅道」 大化改新の方程式(165))で示したように、私は高向玄理ら一行がとった「新羅道」は、通説でいう「北路」すなわち朝鮮半島西岸を北上するルートではなく、半島内陸を新羅の王都・徐羅伐(ソラボル、現在の慶州)から党項城へ北西に横断するルートだったと考えている。
これが正しいとすると、白雉5年の遣唐使で使用する倭国船は従来の朝鮮半島を通交する船舶で十分だったはずだ。

冒頭で紹介した疑問には、巨額の費用がかかる遣唐使を同時に2便(つまり4隻)も送るのはそれなりの理由が必要というご指摘もあったが、2便のうち1便はそれほど費用のかかるものではなかった、というのが私の回答となる。(もちろん朝貢品の調達など別の意味での費用はかかっているが)

白雉4年の遣使は120人乗りの大型船2隻で構成されているので、白雉5年のそれも同じ規模で編成されたと思われがちだ。
しかし実際には、後者の規模については日本書紀はまったく触れていない。また、白雉5年の遣使は2船構成とはいえ「分乗した」という表現を使っていて、白雉4年のものとは明らかに異なった編成を示唆している。

白雉4年と5年の船種が別物という証拠と言えるのが、「この年、安芸にて2隻の百済船を建造」という日本書紀での650年の記事だ(以下の年表参照)。発注されたのは2隻であって、4隻ではない。
たしかにこのとき建造された船が白雉4年に使用されたとは書紀のどこにも書かれていないが、わざわざ記事として記録している以上かなりの大型船であること、また後で検証する白雉4年の遣唐使の渡航ルートから考えて、ほぼ間違いないであろうと私は考える。

この百済船が白雉4年の渡航に使用されたのが真実だとすると、以下のことが言える。
まず第一に、すでに650年の段階で遣唐使再開の準備を始めたこと。
さらに、その建造と運用のために国交断絶状態だった百済との関係修復が図られたこと。

後者については説明が必要であろう。

が、話をすすめる前に、今後の議論の参照用として、以前まとめた641年から660年の外交関係を中心とした年表から孝徳期にあたる645年から654年までの10年を抽出しておこう。
※黒字:朝鮮三国の歴史書である『三国史記』の記事
 緑字:日本書紀に記された倭国での主要事件と外交関連記事
 赤字:日本書紀には対応する記事のない中国側の記録
 下線:今回の考察にとってポイントとなる出来事

---645年---
【正月】新羅、唐に朝貢
【5月】百済、唐が新羅軍を徴発したのを機に、新羅へ侵攻し7城下す
【6月】倭国でクーデター(乙巳の変)、皇極天皇譲位、孝徳天皇即位。大化に改元
【7月】高句麗・百済・新羅が倭国へ遣使。百済使は任那使を兼ねる
【9月】唐の太宗、高句麗遠征軍の撤退を指示(高句麗親征の失敗)
【9月あるいは11月】倭国にて古人大兄皇子の変
【11月】新羅の善徳女王が毗曇を上大等(貴族の合議機関の首座=宰相)に任命
---646年---
【正月】倭国にて改新の詔
【2月】高句麗・百済・任那・新羅が倭国へ遣使
【5月】唐の太宗、高句麗から謝罪のため献上された美女2人を送り返す
【9月】倭国が高向玄理(黒麻呂)を新羅へ派遣。「任那の調」を廃止する代わりに「人質」を倭国に差し出す交渉をまとめる
---647年---
【正月】高句麗・新羅が倭国へ遣使
【正月】新羅の善徳女王、「女主不能善理(女性君主は国を治めることができない)」を唱える毗曇による反乱のさなかに崩御。金庾信らが真徳女王を擁立し、乱を平定
【2月】新羅の真徳女王、唐から「上柱国・楽浪郡王」に冊封
【7月】唐軍が高句麗北方に侵攻(高句麗への再征開始)
【10月】新羅が領内に侵攻した百済軍を撃退
【12月】高句麗、王族を唐へ遣わして謝罪
【この年】倭国から新羅へ派遣されていた高向玄理(黒麻呂)、「人質」として金春秋をともない帰国
---648年---
【正月】高句麗、唐に朝貢
【正月】百済、唐に朝貢
【正月】新羅、唐に朝貢
【正月】唐軍が海路より高句麗侵攻
【2月】倭国、三韓(高句麗・百済・新羅)へ学問僧派遣
【3月~4月】百済と新羅による新羅西辺での攻防
【4月】唐軍が海路より高句麗侵攻
【9月】唐軍が海路より高句麗侵攻
【閏12月あるいはこの年】新羅の金春秋とその息子(金文王)が使者として唐に朝貢。金春秋が唐の太宗に新羅の苦境を直訴。金文王は唐の太宗の宿衛として唐に留まる
【この年】新羅、倭国へ遣使
【この年】倭国、新羅の遣唐使に託して唐帝への上表文を届けさせた
---649年---
【正月】新羅が唐の衣冠を採用
【2月】新羅の金春秋、唐から帰国
【3月】倭国にて蘇我倉山田石川麻呂の変
【5月】倭国、新羅へ遣使
【7月】唐の太宗崩御。高宗即位。太宗の遺詔により高句麗遠征中止
【8月】新羅が領内に侵攻した百済の大軍を撃破
【この年】新羅、金多遂を「人質」として倭国へ派遣
---650年---
【2月】倭国、白雉に改元
【4月】新羅、倭国へ遣使
【6月】新羅、唐に朝貢し百済軍撃破の報告。唐を称える真徳女王の漢詩を織った錦を献上
【6月】高句麗の高僧が国の道教政策に抗議して国外移住
【この年】倭国が安芸にて2隻の百済船を建造
【この年】新羅が独自の年号を廃し、唐の年号を採用
---651年---
【2月】新羅の金仁問(金春秋の息子)が使者として唐に朝貢。唐の高宗の宿衛として唐に留まり、左領軍衛将軍を授けられる
【6月】百済・新羅が倭国へ遣使
【11月】百済、唐に朝貢。唐の高宗、百済に新羅との和親を命ず
【この年】倭国が唐服着用した新羅使を追い返す
【この年】新羅が律令格式を制定する理方府を設置
---652年---
【正月】高句麗、唐に朝貢
【正月】百済、唐に朝貢(※百済からの最後の朝貢記録
【正月】新羅、唐に朝貢
【4月】新羅・百済、倭国へ遣使
【9月】倭国の新都・難波長柄豊崎宮完成
---653年---
【5月】倭国、第2次遣唐使を派遣(2隻・大使2名・送使2名)
【6月】百済・新羅、倭国へ遣使
【6月】倭国、各所の大道を修理
【6月】倭国の僧旻死去
【8月】百済、倭国と国交を結ぶ
【11月】新羅、唐に朝貢
【この年】倭国の皇太子の中大兄皇子ら母・宝姫王とともに飛鳥への遷都をはかる
---654年---
【2月】倭国、高向玄理(黒麻呂)を押使として第3次遣唐使を新羅道経由で派遣(2隻・大使1名)。黒麻呂唐で客死
【3月】新羅の真徳女王、崩御。金春秋が即位(武烈王)
【5月】新羅、理方府格60余条を制定
【閏5月】新羅の武烈王、「開府儀同三司・楽浪郡王・新羅王」に冊封
【7月】倭国の第2次遣唐使の吉士長丹らが百済・新羅の送使と共に筑紫に帰着。唐の皇帝と会見し、多くの文書・宝物を得たことを褒め、授位
【10月】倭国の孝徳天皇崩御
【12月】遣唐使が琥珀・碼碯(めのう)を献上。唐の高宗、倭国に詔勅をもって新羅への援助を要請
【この年】高句麗・百済・新羅が倭国へ弔使

白雉5年の遣唐使の謎に迫る道のりは遠くなる感があるが、次回では孝徳期における百済との関係をみておこうと思う。
今後の議論にとってそれは決して寄り道ではない。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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